羨み卑屈になって優しくなれない

母が亡くなってからの話

涙の数だけ強くなれる

それは、実感として事実かもしれない。

強くなったというよりも、乗り越えたように振舞っていないと日常生活をまともに送るのは困難だ。
やることが多くて。

一度目(夫)の死別で強くなり、二度目(息子)の死別で壊れてしまった人もいるので”涙の数だけ ”と一概には言えないのかもしれないけれど。

涙の数だけ 優しくなれる

つまずいた数だけ優しくなれる

そうなれたら素晴らしい。

しかし、私には当てはまらない。

当てはまれなかった。

仕事で、母と同年代のパソコンが使えない人が事務員の取引先がある。

母が生きていたころは、

母と同年代なら学生時代にパソコンは無かったし、就職してからはパソコンを学ぶ機会も無かっただろう。
母が頑張っていると思って、自分が分かることは教えようと思っていた。

けれど、母が亡くなって2年。

母が亡くなってからはどうだろう。

いろいろ操作を聞かれても、

私が教える義理があるんだろうか?
パソコンができないのに、事務職って?
できないなら、できないなりに、まずパソコン教室にでも通ったら?

入力ソフトの運営かパソコンの購入先に聞いてほしいと何度か繰り返し伝えたら、電話はかかってこなくなった。

母が亡くなって、涙ならたくさん流した。

今までの人生の比にならないほどの、苦しみや悲しみ、悔しさを知った。

なのに優しくなるどころか、むしろ冷たくなった。unkind

自分より一回りも上なのにまだ両親が健在なことを羨む。

同年代なら、両親と旅行をしたり、外食をしたり、子どもに何かを買ってもらっていたり、熱が出れば看病のヘルプに来てもらっていたり、羨ましい。

すべて、母が生きていた時、自分がしてもらっていたことなのに。

でも、これは悲しの最中、もしくは途中だからだろうか。

母の死を乗り越えられたら、他人にも優しくなれるのだろうか。

母の死を乗り越えられる日なんてくるのだろうか。

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